被災地の今・・・。
2012/05/09
せっかく山形まで来たので、出来る事なら‘被災地‘をこの目で見ておきたい・・・。
出店の準備も終わった29日、キャン友(タバちゃんF)の車で被災地視察へ出掛ける事に。
山形からだと約200㎞程の移動距離、当てもなく走るわけにはいきません。
炊き出しボランティアの経験が有るキャン友さんからアドバイスを頂き、志津川地域に向かう事にしました。
志津川に入るなり見えてきたのは・・・被災した車の山でした。
ナンバープレートが付いたままの物もあります。
こちらは住宅の跡、浄化槽も基礎も剥き出しです。
地域の入り口でこの有様です、重い気持ちで進んで行くと・・・
仮設の店舗で商店街が出来ていました、その名は「南三陸さんさん商店街」
商店街の中心にあるイベント広場
ちょうどバンドの生演奏の真っ最中でした。
いろいろなお店で賑わっております。
「キラキラ丼」食べたかった~!
時間が中途半端でお腹がね・・・う~ん、無理しても食べるべきだったな・・・。
商店街にあった、かつての志津川地区の航空写真。
海と山のバランスの良い、とてもキレイな街ですよね・・・。
商店街の活気に嬉しさを覚え、いよいよ街の中心に向かいます!
ところが、商店街を出たすぐ横には、廃墟と化した合同庁舎が!
玄関はこの有様・・・。
中に入ってみました、これは3階の部屋です。
その窓からの眺めです。
駐車場だった場所には片付けられた‘瓦礫‘が山積みになっています。
さらに車を走らせると・・・見えてきました!
ニュースで何度も放送された「防災庁舎」であります。
献花台が出来ており、県外からも沢山の方が来ていました。
後ろに見えるのが「志津川病院」・・・言葉になりません・・・。
「防災庁舎」の脇で見つけた‘タンポポ‘・・・複雑な想いがします。
「志津川病院」の正面側、この辺りが街の中心だったんでしょか。
海岸付近は特にひどいもんです。
上と下の写真に写っているマンションは同じ建物です。
‘志津川‘地区を後にし、海岸線を進みます。
学校校舎でしょうか・・・
まだまだ手付かずのところも・・・。
しばらく走ると・・・此処に着きました。
「大川小学校」です。
やはり献花台が作られ、多くの方々が来ていました。
大川地区のメインストリートだったと思います。
かつてはここに街があり、生活があったんですよね・・・。
時間の都合でこれ以上は回れませんでした。
この1年で随分片付いたのかもしれませんが、車や瓦礫を1箇所に集めただけで‘復興‘にはまだまだ
程遠い・・・ってのが正直な感想でした。
静岡県の島田市では、瓦礫を受け入れ、焼却処分しようとしています。
それぞれの立場での賛否両論あるとは思いますが、皆が一つにならないと解決はしないでしょう・・・。
オイラが住む富士市にも、原発の影響をモロに受けた浪江町から移り住んで来た方がいらっしゃいます。
2~3度一緒に酒を飲む機会があり、いろんな話しを聞かせて頂きました。
その方は、こちらで家を求める事が出来、生業だった「学習塾」も再開出来ました!
同じ国に生まれ、生きている以上、‘対岸の火事‘ではないです、‘明日は我が身‘かもしれません!
復興はまだまだ時間が掛かるでしょう、風化させず皆で考えていかなければ!・・・と思います。
改めて志津川地区、大川地区、を含む被災地の犠牲者の方々に合掌・・・。